安曇野の歴史

安曇族

安曇野の地名の元にもなったと言われる「安曇族」は、高い文化、高い政治的地位を持つ海神族(わたつみぞく)のひとつの氏族で、北九州志賀島(福岡)を拠点に塩の生産に従事したり海や川の水上交通を司り、海部(あまべ)を支配し、中国まで交易していました。

安曇野は四方を山に囲まれた山国であるにもかかわらず、祭りの山車がお船であったり、昔から「エゴ」という海藻を食す文化があるのはかつて海神族の安曇族がこの地へ入植したことが推察できます。他に愛知県渥美、滋賀琵琶湖の西に安曇川、石川県志賀安津見など「あずみ」に近似する地名が全国に16か所 「志賀」に由来する地名が17か所あります。共通点は海から川を伝って行ける棚田に適した土地で山がせまり豊かな湧水があり居住は山麓です。水田稲作の技術 養蚕の技術を持っています。

この地へはいつ、どのように入植し、どのような暮らしをしてきたのか歴史ロマンを駆りたてられます。

犀龍小太郎(さいりゅうこたろう)

大昔、信州の真ん中、安曇野のあたりは大きな湖でした。湖には犀龍がすんでおり、小太郎という息子がいました。犀龍と小太郎は人が住めるような大地にするため、湖から水を抜き、岩山を崩すことにしました。山はなかなか崩れることなく犀龍の体からは血が流れ湖は赤く染まりました。何度目かの体当たりの末、山は崩れそこには大地が広がりました。やがて一帯は肥沃な土地となり広々とした田園風景が広がるようになりました。
物語の表現は地域によって若干の違いはあるものの、大筋は同じです。

穂高神社には犀龍と小太郎の銅像がありますが、安曇野に入って土地を開墾した安曇族の活躍そのものがこの伝説となったのではないかと言われています。

八面大王

昔、有明山の麓に三方を大岩で囲った岩屋に、八面大王と言う大鬼が住みついていました。村里に出ては悪さをし農民を困らせていました。それを聞いた坂上田村麻呂が侵攻することになり、三十三斑の山鳥の尾羽で作った矢で胸を打ち抜いたという説と、大和朝廷の進出により朝廷軍が「布を出せ」「兵を出せ」「馬を出せ」と民(たみ)を苦しめ、そんな民を見るに見かねて八面大王が立ち上がったという説と、二通りの筋書きがあります。

多田加助 貞享義民(じょうきょうぎみん)

江戸時代に起きた全国的にも有名な農民一揆、それが貞享騒動です。その中心的リーダーが現在の安曇野市三郷地区の多田加助です。凶作に続く疫病のため加助は「五箇条の訴状」を12人の仲間とともに松本城下郡奉行へ提出しました。それに応ずる形で松本平1万人が竹槍を持って松本城に押し寄せる騒ぎとなりました。一旦、願いは叶えられるかに思われましたが、1ヶ月後にはなかったものとされ、加助をはじめ、同士や一族が処刑されました。

三郷地区には加助ら義民の顕彰がされている貞享義民記念館があり、その功績などを伝えています。

堰(せぎ)

安曇野といえば田園風景ですが、かつては水を得ることが難しく、水田が開けず、雑穀や芋などを作る畑が主でした。米を作って家族に食べさせたい、米さえあれば豊かな暮らしができるという夢を大変な苦労の末、実現したのが堰です。堰はたくさんの米を育て今の安曇野の風景を作っています。

代表的な「拾ケ堰(じっかせぎ)」の工事期間はたったの3か月、取水から出水まで高低差はわずか5mでほぼ標高570mの等高線に沿って水路が作られており、200年も前の測量技術に驚きます。
拾ヶ堰は農林水産省「疎水100選」に選ばれています。